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若手研究者研究紹介 小谷 究(流通経済大学)


 


「バスケットボール競技の戦術の変容」

流通経済大学 スポーツ健康科学部スポーツコミュニケーション学科 助教
小谷 究   博士(体育科学)

私はスポーツ史を専門分野とし、日本において本格的にバスケットボール競技が行われるようになった1913年から第二次世界大戦により競技が一時中断する1943年までのバスケットボール競技の戦術がどのように変容し、その要因は何であったのかについて研究してきた。ここでは、これまでの研究内容についてディフェンス戦術、ファストブレイク、スクリーンプレーに分けて紹介する。

日本のバスケットボール競技においてルールが統一された後の1910年代末期から1920年代初期、センター、フォワード、ガードの各ポジションの役割は明確に区別されており、ガード2人のうち1人はオフェンス時も常に自陣に残った。したがってこの時期、オフェンスは最大でも4人によって展開されていた。これに対して用いられたディフェンス戦術は、マンツーマンディフェンスであった。このディフェンスではオフェンスに参加する相手プレーヤーの人数に対応して、ディフェンスに参加するプレーヤーの人数が決められていたため、当時は4人以下のプレーヤーによってディフェンスが行われていたとみられる。

1924年頃、チームの強化を図った早稲田大学にコーチとして招聘されたFranklin H.Brownは、そこで3-2ゾーンディフェンスのディフェンス戦術を紹介した。当時の日本におけるバスケットボールコートは狭く、滑りやすいものであり、さらに当時の主要な大会が数多く開催された東京YMCAの体育館がコーナーからシュートが打てない構造であったことからも3-2ゾーンディフェンスは有効な戦術として機能した。

3-2ゾーンディフェンスが日本に導入されると、この戦術はまたたく間に全国に広まり、数多くのチームで採用されたが、わずか5年ほどの間に3-2ゾーンディフェンスはほとんど採用されなくなっていった。その要因として、3-2ゾーンディフェンスに対して効果的なオフェンス戦術であるハイポストプレーが採用されはじめたこと、国内の主要な大会で用いられるコートが拡大されたこと、習得が困難な3-2ゾーンディフェンスをチームに浸透させられる指導者が少なかったことがあげられる。1926年頃から国内では、3-2ゾーンディフェンスに代わるディフェンス戦術として再びマンツーマンディフェンスが採用されはじめた。

次に、ファストブレイクに目を向けると、1920年代はじめ、日本ではフロントコートに残っているプレーヤーにロングパスを出すことにより、速い展開で攻撃するスリーパーオフェンスが用いられていたが、1924年頃に早稲田大学が採用して以降、多くのチームがバックコートにおいて5人でディフェンスを行う3-2ゾーンディフェンスを用いるようになると、プレーヤー1人をフロントコートに残すスリーパーオフェンスを用いることができなくなった。そのため、日本では1920年代中頃から3-2ゾーンディフェンスの普及に伴い、スリーパーオフェンスは採用されなくなっていった。

スリーパーオフェンスが採用されなくなった後のオフェンス戦術は、ゆっくりとスローテンポな攻撃を展開するセットオフェンスが全盛であったが、1932年に10秒ルールが採用されたことによりゲームの展開が速くなった。さらに、フリースロー成功後及びフィールドゴール成功後はセンタージャンプにより始められていたゲームの再開が、1935年にフリースロー成功後のセンタージャンプが廃止され、2年後の1937年にはフィールドゴール成功後のセンタージャンプが廃止され、ゲームの再開がエンドラインからのスローインで始められたことにより、スローインを素早く行うことで、ファストブレイクを試みることが可能になった。これらのルール改正により、1930年代中頃よりファストブレイクが採用されるようになった。当時は、基本的なファストブレイクとしてスリーレーンファストブレイクが採用されていた。それまでの大学のゲームは、主にゴール間の距離が短い東京YMCAのコートで行われたが、1933年にゴール間の距離が長いバスケットボールコートが明治神宮外苑相撲場に新設され、その後に開催された関東大学リーグ戦、全日本選手権大会の試合会場として使用されたことは、スリーレーンファストブレイクの有効性を発揮しやすくするものであった。

最後に、スクリーンプレーについて紹介する。日本では1920年代中頃からピボットが採用されるようになり、1927年頃からスクリーンプレーの一種であるオフボールスクリーンが採用され、アウトサイドスクリーンを受け入れる土壌が存在していた。1929年頃には指導書においてアウトサイドスクリーンが紹介されるようになり、アウトサイドスクリーンを行う条件が整った。その後、日本では1930年頃までにハンドオフパスが採用されるようになった。一般にスクリーンプレーはゾーンディフェンスよりもマンツーマンディフェンスに対して効果があるとされているが、1920年代末から1930年代初期の日本においても同様に捉えられており、1930年代に入りマンツーマンディフェンスが普及したことにより、アウトサイドスクリーンが有効性を発揮できる環境が整った。こうした過程を経て、日本では1930年代初期よりアウトサイドスクリーンが用いられるようになった。

以上において示したとおり、今日用いられているマンツーマンディフェンス、ゾーンディフェンス、スリーレーンファストブレイク、スクリーンプレーが、すでにこの時期までに日本において採用されていたことが確認され、それらバスケットボール競技の戦術が、ルール、施設、用具、技術、指導者といった様々な要因に影響を受けながら変容してきた様子が明らかになった。

【著書】
『バスケットボール用語事典』(2017)廣済堂出版
『ボールマンがすべてではない』(2017)東邦出版
『バスケットボール学入門』(2017)流通経済大学出版会
『スポーツの歴史と文化の探求』(2017)明和出版

【論文】
小谷究(2017)戦時中の日本におけるバスケットボール競技に関する史的研究:学生の競技活動の停滞と一時中断に至った経緯に着目して.運動とスポーツの科学,23(1)
小谷究(2017)日本のバスケットボール競技におけるアウトサイドスクリーンの採用過程に関する研究.身体運動文化研究,22(1)
小谷究(2016)日本のバスケットボール競技におけるゾーンディフェンスの採用過程に関する史的研究(1930年代−1940年代初期):オフェンスとディフェンスとの相関関係に着目して.身体運動文化研究,21(1)
小谷究(2015)日本のバスケットボール競技におけるオフボールスクリーンの採用過程に関する研究.運動とスポーツの科学,21(1)
小谷究(2015)日本のバスケットボール競技におけるファストブレイクに関する史的研究—1930年代のルール改正とコートの大きさに着目して—.バスケットボール研究,(1)
小谷究(2015)日本のバスケットボール競技におけるオフェンス参加人数に関する史的研究(1920年代初期~1930年代初期):5人でのオフェンスの採用過程に着目して.東京体育学研究,6
小谷究(2014)日本のバスケットボール競技におけるアサイン・マンツーマンディフェンスの採用過程に関する研究(1920年代後半—1930年代前半).運動とスポーツの科学,20(1)
小谷究(2014)日本のバスケットボール競技におけるファイブマン・ツーライン・ディフェンスに関する史的研究.体育学研究,59(2)
小谷究(2014)日本のバスケットボール競技におけるゾーンディフェンスの導入過程に関する史的研究―Franklin H.Brownが紹介した3-2ゾーンディフェンスディフェンスに着目して―.スポーツ史研究.(27)
小谷究(2013)1920年代の日本におけるバスケットボール競技のファストブレイクに関する史的研究―スリーパー・オフェンスの採用と衰退に着目して―.運動とスポーツの科学,19(1)

【受賞歴】
東京体育学会 東京体育学奨励賞
身体運動文化学会 若手奨励賞
日本キャンプ協会 Most Impressive Presentation賞
大学体育連合 第6回大学体育研究フォーラム 優秀発表賞

会報第35号-1(2017,2018年)

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